狂愛――ラプンツェルの反乱前編_2

幼児が事実に目をつぶった事によって扉は開かれる


標的に対していかなる感情も持たない…そのために貫いていた、余分な情報は聞かない、その姿勢が今回のイレギュラーを招いた原因だった。

仕事を終えた後のリボルバーに軽く口づけ、カリエドがいつものように銃からサプレッサーを外していると、カタっと小さく開くドア。
明らかに人にしては低い位置のその気配に、対応が遅れた。

外してしまったサプレッサー。
さすがにそのまま発砲したら近所に気づかれる。

……ダディ?マミィ?
細い声にドアを凝視していると、そこから白い塊が部屋の中に入ってきた。
薄暗い部屋の中、月明かりに照らされた金色の髪が発光でもしているかのようにほんのりと明るい。

人形のように小さな人間。
ああ、幼児としては妥当な大きさではあるのだろうが、大人しか視界にいれないカリエドにとっては十分な小ささの人間がそこにいた。

目をこすりながら片手に自分の背の半分くらいはあろうかと思われるぬいぐるみのクマをひきずっているその幼児は、床に折り重なったまま血を流している男女を見てコテンと首をかしげた。

そしてそのまましばらく死体を凝視していたまんまるの目が恐怖と不安に大きく見開かれ、目元に涙の粒が溢れてくる。

…ふ…ふぇぇ……

小さく漏れ始める声に、まずい!とカリエドは子どもの泣き声が響くのを阻止するため、リボルバーをすばやくホルダーにしまうと、子どもを抱き上げた。

「…シっ…。静かにしたって?」
と、自分でも無茶を言っていると思いつつも抱き上げた子どもに視線を合わせてそう言うと、子どもはびっくり眼で固まったが、しかし何故か次の瞬間こっくりと頷いて、小さな小さな声で
「…逃げるの?」
と聞いてくる。
そこでカリエドは我に返った。

「そうやな。逃げなあかん…。」
どうして子どもが自分にそんな事を言うのかとか、もうそういう事を考えるのはあとでいい。
怪しかろうとなんだろうと、ここで子どもを始末している余裕はない。
とりあえず撤退をしなければ……。
カリエドは我に返って、子どもを抱えたまま窓から外に飛び出した。


少し離れた所に止めた愛車、黒のセアト・イビサの助手席に子どもを乗せ、自分も素早く運転席に滑り込み、夜の闇の中を走りだす。
子どもは不安げにカリエドの上着の裾をぎゅっと握りしめ、時折座席の合間から後ろを伺うような素振りをみせるので、不思議に思って
「何をみとるん?」
と、聞くと、やはり涙が滲む目で
「怖いやつが追いかけてくるかも……」
と言う。

そこでカリエドはようやく子どもの認識を理解した。
怖い奴=両親を殺した誰か…という事なのだろう。
どうやら子どもは何故かカリエド以外の誰かが両親を殺して、カリエドはそこに居合わせただけだと思っているらしい。

そうとわかってしまえば扱いは簡単だ。

「大丈夫やで。悪い奴が追いかけてきたら、親分がやっつけたるからな。」
と、さも正義の側の人間のような事を口にしてみれば、子どもはまあるい目ですがるようにカリエドを見あげ、まるでカリエドだけがこの世で唯一自分を救ってくれる存在だと言わんばかりの様子で、泣きながら何度も頷いてみせる。

自分をみあげているその子どもの視線に、自分の服をしっかりと掴んでいる小さな手に、自分にすがってくる子どもの全てに、じわり…と今まで感じた事のない感情が腹の奥底から湧き出てくるのをカリエドは感じた。

こんな風に幼児は、標的やその周辺はもちろん他のどんな人間にでさえも心の中での距離感は保ち続けていたカリエドの心に土足で入って近づいてくる。

何にも踏み荒らされた事のないその真っ白な部分にあっという間に消せない足跡を残されている事すらカリエド自身は自覚がないが、気づけば

「親分の側から離れんかったら、大丈夫や。」
と、一瞬ハンドルから片手を離し、子どもの小さな頭を撫でまわしていた。

それに対しても、子どもはしゃくりをあげながら頷くことで、カリエドの心を何かしらで埋めていく。



こうして車はそのままカリエドが仕事の関係上世界各国に持っている隠れ家の一つへ。

駐車場に車を滑り込ませると、子どもは当たり前に、抱っこ…とでも言うように小さな手をカリエドに向かって伸ばして来た。
その求めに応じて小さな身体を抱き上げると、密着する子ども特有の柔らかさと、少し高めの体温が心地良い。

もっとも子どもと接する機会などほぼなかったカリエドにとって、それが子どもだから…という知識はなく、その事が余計にこの子どもが特別なように思わせた。

「…親分はアントーニョ、トーニョやで?」
マシュマロのような肌触りの子どもの頬に自分の頬を擦りつけたのは無意識である。
だってそれはあまりに心地よく甘美だ。

「…あ…と…にょ……トーニョ?」
どうやらアントーニョとはまだ上手く言えないらしい。
口の中でもごもごと何度か言おうとしていたが、結局諦めたらしく、愛称の方を口にしつつつぶらな瞳で見あげてくる幼子に、これまで感じた事のない感情が溢れて来た。

叫びだしたいような暴れ出したいような…何かわくわくと心が浮き立つような不思議な心地。
それをどうにも消化しきれずに、カリエドはギュッと子どもを抱きしめる腕に少し力を込めた。

「おん。よう言えたな。親分はトーニョや。自分は?」
これまでの人生、あまり感情というものを表に出さないように生きてきたのだが、カリエドが初めて自分に出来うる限り優しく、親しみを込めた声音で聞いてみると、幼児はぷにぷにした腕をカリエドの首に回した状態のまま、
「…あーしゃぁ…」
と甘い舌ったらずな声で言った。

何かくすぐったいと感じたのは、果たして耳元に幼児の口元がきているその体勢のせいなのか、それとも別に理由があるのか、自分でもわからずに、カリエドは小さく首をすくめる。

サプレッサーを外していたため銃が撃てない…幼児を連れ出したのはそんな理由からではなかったのか…という事は、脳裏からもうすっかり消えていた。

……と…にょ……ねむい……

コテンとカリエドの肩先に頭を預けて、そう言った次の瞬間にはすぴすぴと小さな寝息をたてて眠る幼子。
それを片手でしっかり抱きかかえたまま、カリエドは空いている方の手でポケットのキーケースからキーを出して、鉄製の古びたドアの鍵穴に差し込んだ。

…こいつの分もパスポート用意せなあかんな……

と、そんな事を思う事にすでになんの疑問も抱かない。

驚くほどストンと手のうち心のうちに入り込んできた幼児を手放す気は、不思議な事にまったくおきなくなっていた。






0 件のコメント :

コメントを投稿